『ブラッディ・マンデイ』最終回の感想

昨夜何気なくTBSの昔のヒット歌謡特集みたいな番組を見ていたんだけど、尾崎紀世彦(『また逢う日まで』)とか布施明さんとか、昔はこんなに歌のうまい歌手がいたのかー・・・と驚きました。ってか、うまいのが最低条件だったんだろうけど、いつから日本の歌手って「本当に歌のうまい人を探すのが難しい」っていうふうになっちったんだろう?下手な時代からどんどん上達していくのならわかるんだけど。一体いつの時代の仕掛け人がそういう悪い流れを作ってしまったんだろう?文化の面で見ればそれはとっても罪深い人間だと思う。


本題。
振り返ると、このドラマは初回がピークだったような気がします。1話だけとは言え、あれだけスピード感もあって凝った内容のドラマを作れるのに何故全体を通すとイマイチな印象なんだろう?


映画やドラマを見る時、人によってこだわるポイントが違うと思うのですが、私の場合は演技力が一番気になるところです。演じている役者さんがうまければ、多少設定に無理があっても気にならない。現実を見渡しても、元官僚やその妻を殺害しておきながら、飼い犬を30年以上も前に保健所に処分されたからという動機しか語らない容疑者が実際にいる。その他にも、納得のいく説明がある出来事ばかりではない。だから、その役者さんが「演じている感」を出さない上手な人ならば、私はその矛盾の世界にいくらでも入り込めるのです。今回の『チーム・バチスタの栄光』はまさにそう。あのキャスティングした人万歳!


話を『ブラッディ・マンデイ』に戻しますが、設定などはとても面白かったのですが、出演者の、特にテロ側の演技力が気になって、後半は全然ドラマに集中できませんでした。それでも、嶋田久作さんの不気味な威圧感にはぞっとしたんだけど。


物語に入り込めてないまま、正確に言えば1話、2話くらいまではその世界でキャッキャと楽しんでいたんだけど、気がつくとそこが居心地の悪い世界になってきて、いつの間にかちょっと距離を置いてブラッディ・マンデイという名の世界を冷静に見ていたんだけど、冷静に見ちゃうと、最終回にKが三浦春馬演じる主人公に対して「私を殺せば私の気持ちもわかるかも」と言った場面でも「この設定はまるで『セブン』のパクリだ」と思ったし、Kは、自分の父を殺させたり、同級生の友人をウイルスに感染させて殺したりと散々非情な事をしておきながら、最後になって「私が死んだら悲しい?」と急に情を求めるような台詞を言ったりして、なんだかなーとキャラクターの一貫性の無さを感じたりしました。


そして、これはドラマに対してではなく私のワガママな文句なんだけど、最後に例の手の甲に蝶のTatooがある男再登場にゲンナリ。だからあれを強調するのはもういいって!アイツドラマの中でもそんな最強の殺し屋じゃなかったじゃん。殺しても殺しても蘇ってくるターミネーター(特に2の方)のような不気味さはあの殺し屋では得られない。それに、遺体を写さなかった時点であの殺し屋が本当は生きているだろうなというのは薄々感じていました。(ただ最終回ではあの殺し屋の存在などすっかり忘れていたけど。)


以前にも何度か書いたけれど、このドラマに出ている役者さんの中では重松豊さんと田中哲司さんと嶋田久作がすごい素敵な俳優さんだなーと思って見ていたのですが、田中哲司さん演じる父が実は良い人だろうというのは、私だけでなく見ている人たちも大体わかっていたと思うので、最後にそれを明かすだけではインパクトが弱いので、さらに、最初は悪い人のように見えて、でも実はすごく良い人じゃん!と安心させていた重松豊さんが極悪人だった・・・というのはどうでしょう?最後に助けに来た時に、中性子爆弾を隔離する振りをして、どこかに持ち逃げしちゃうとか。きっと重松さんがそれをやれば、凄い名場面になったんじゃないかなー。深夜とかに重松さん演じる加納さんのスピンオフドラマをやって欲しいものです。