大体わかってましたよ。

熱海の捜査官』最終回の感想。
煮え切らない『シックスセンス』のような・・・『アンブレイカブル』のような・・・。M・ナイト・シャマランのMは三木聡さんのMか?


このドラマを見終えてまず最初に感じた事が、「視聴者の混乱を招こうとしているのがミエミエだ!中尾ミエだ!」というもの。友達同士やらネットやらで「あの終わりってどういう意味!?」と話題にされる事を狙っている雰囲気むんむんだ。ドラマの最初の方に何かヒントがあったのかな?と思っても、もう録画したやつはとっくに上書きして残ってないから見られない。そうやってDVDを買わせようって魂胆か・・・。


別に私は不可解だから不満を感じている訳ではないのです。むしろわかりやすい世界の方が好きではないくらい。だけどこの不可解さは、例えば北野武監督の『TAKESHI'S』のように、自分の表現したい事を詰め込んだら結果的に他人には理解されないものになってしまった、というのではなく、わざとわからないように、わからない事を目的として作られているあざとさを感じるのです。


こういう終わり方って、それこそ映画とか単発ドラマならアリだと思うんですよね。私のつたない文章力ではそう思う根拠をうまく説明できないので、ミステリー作家のジェフリー・ディーヴァーさんの短編集『クリスマス・プレゼント』のまえがきから一部引用させて頂きます。

(省略)長編小説の執筆では、ぼくは厳格な作法を固守している。(省略)作家は読者に責任を負っている。時間とお金と感情を長編小説に注ぎ込んだあげく、苦く皮肉に満ちたエンディングにがっかりさせられるなどという経験は、ぼくの読者には絶対にさせたくない。
しかし、長さ三十ページの短編となると、事情はまるでちがってくる。読者は、長編の場合とちがい、さほど多くの感情を投資しない。(以下省略)

あくまでもこれはジェフリーさんのポリシーなので、これが正解だとは言わないけれど、このドラマを作った人は、見た人を本気で楽しませたいと思いながら作ったのかな?という不満にも似た疑問が拭えない。置いてけぼりにされたのは、北島(栗山千明さん)ではなく私だ。


ドラマの中で登場する
『われわれはどこから来たのか われわれは何者なのか われわれはどこへ行くのか』
というゴーギャンの絵画が答えのカギという事で、自宅にあるゴーギャンの画集(といっても手頃なもの)を引っ張り出してみたんだけど、その本ではあの絵画の作品名が
われらいずこより来たり、われらは何であるのか、われらはいずこに去るのか
と表記されていた。このタイトルがこのドラマの核を表しているような気がする。あの一枚の絵の中に赤ちゃん、若い女性、老女が描かれていて、それが人間の一生を表しているそうです。そういえば『5時に夢中』でジョナサンがこの絵の説明を受けていたなぁ。ちなみにゴーギャンはこの作品を描き終えた後、自殺を図ったそうです。(未遂)


以下は私の解釈なので、「こう思う人もいる」程度に軽く流して下さい。


「ライン」とはやはり死の世界の事だと思うんだけど、バスと共に生徒達が失踪した直後に、バスの運転手のリーゼントマンが服を脱ぎ捨て半狂乱のように叫びながら畑を駆け回っていましたよね。あれって今思うとあの時にラインを越えちゃった(越えた世界を見た)のかなと思ったんだけど、犯人が萩原聖人さんと東雲さんだとするならば、運転手はあの時ただ道路を走ってバスを追いかけていただけなので、死の淵を垣間見る機会は無かったと思う。


でも、あの人がラインへの運転手として再び現れ、しかも宗教団体のMr.2になっていた事を思うと、やはり人が行き着く世界を知っている人だと思うんだけど、謎解きを絡めている割にはその辺が曖昧だ。


第一話で、道路を横切るおばあちゃんがべろべろと舐めていたチュッパチャプスがマーブルだったのを見たオダギリジョーさんが「最初に出会う人でこの町がどんな町か大体わかる。あのおばあちゃんが舐めていたのはマーブル味。つまりこの町は2つの世界(価値観だったかな)が混ざり合う事なく存在している。」みたいな事を言っていたと思うんだけど、つまり、南熱海は死だけの町でもなく生だけの町でもなく、それが混在している町だという事なんですね。だからロープウェイの中に物語に関係ないオバケみたいな人がたまに乗っていたのか。そして、悲しい事にオダギリジョーさんと栗山千明さんの世界も同じではなかった。


意識不明状態の生徒が、別の次元では元気に過ごしている場面はすごく好きです。そこに姿を表した東雲さんが、それまでに見せなかったようなリラックスした笑顔を見せる場面も。あのゴーギャンの絵のタイトルを見て記憶を取り戻した東雲さんは、自分がここ(生の側)にいる人間じゃないと悟ったんですね。そして、天国への行き方も思い出した。ブルース・ウィリスのように。


こういう結末ならば、銀粉蝶さん演じる占い師の設定のように、もっと死の世界にいる人達の行動をふわっとさせておけば良かったのに、宗教に入信している生徒達(つまり死の世界側の住人)がパソコン画面に向かって御祈りしていたり、頭上から植木鉢を落として試してみたり、生きている人間の取る行動みたいに三次元的だ。でも結局ラインを越える方法は曖昧でファンタジック。


2の謎とか、まだ答えのない部分はあるけれど、正直どうでもいいや。恐らく視聴率が良かったら最後の告知で「2はパート2(続編)の事でした!」って言いたかったんだろう(推測)。残念ながら、先週期待したように「終わりよければすべてよし」とは言えないドラマでした。


ちなみに『うぬぼれ刑事』はまだ見ていません。今から見ます。