この人が家庭でもこういうスタイルならば、きっとお子さんは口答えをする人間になるだろう。

 久々に江川紹子さんのツイッターを読んでいたら疲れた。なんか憤りとか違和感とか情けなさとか、概ね不愉快な感情が飛び交い。不快感を感じつつも、一度扉を開けて中を見てしまうと「もっと見たい」という欲求は止められず(止める必要もないが)2〜3ヶ月分くらいのログまで遡って読んじゃったよ。


 そして江川紹子さんのツイートの中にあのスカシ屋の竹田圭吾さんが登場していた。拒否反応とは裏腹に、こちらも欲望には勝てず思わず読み込んじゃったけど、あー。竹田圭吾さんはやっぱり苦手だ・・・。
 (詳しくは竹田さんのツイッターを検索してちょ。)


 先日太田光さんの言動(斉藤和義さんが反原発の歌を歌った事や、脱原発のデモを“そんな事やってもしょうがない”とラジオで発言)に怒った私だけど、まだ太田さんは自分の行為を自覚しているから竹田さんよりはマシ。熱い自分の行為を「熱い俺」と自覚しているから。


 竹田さんはさぞ冷静で多角的な視野をお持ちなんでしょうね。冷めてる人間なら冷めてる人間でいいんだけど、実はそうじゃない。むしろ結構粘着質かも。だって人に見えるようなツイッターという場で彼ら(主にフリージャーナリストや反原発、脱被曝、TPP反対系の活動をしている人達)の批判をする。実は腹の底で熱く怒ってる感情があるから、黙って見過ごせないんじゃないか。この人のやってる事って何か矛盾している。


 竹田さんは自身のツイッターでまず

 『原発問題やTPPに反対だの賛成だのと軽々しく言う人間はジャーナリストと名乗るべきでないと思う。』

とつぶやいた。そこまではまだいい。そういうスタイルの人がいてもいいから。でも次。

 『ジャーナリストに「導き手」としての存在を期待する人が増えているのだろうな。こういう状況で導き手が社会で有用なことは否定しないけど、それは本来ジャーナリストとは正反対の位置にあるというのが自分の考え。だから僕はあえてジャーナリストと名乗る。』

 なに!「僕はジャーナリスト」と自ら名乗った上でコメンテーターとしてテレビに登場し、私見を何万世帯に向けて喋って聞かせている人が、
原発問題やTPPに反対だの賛成だのと軽々しく言う人間はジャーナリストと名乗るべきでないと思う。』
なんてよく言えたもんですよ。


 例えば、番組内での竹田さんの発言が実は番組側の意を汲んだものだとしても、見てる方からすれば竹田圭吾さんの意見として耳に入り、視聴者がそれに影響を受けない保証はない。自分が全く「導き手」の役割を担いたくないというならテレビに出る時はレポーターの側に立った方がいい。


 まさか、「僕はテレビで賛成・反対と具体的には表明していない」とか「原発・TPPに関しては言及していない」とか、下手な弁護士みたいな逃げ口上を使うんじゃないでしょうね。最近の原発やTPPに関してはあんまりテレビを見てないからわからないけど、それ以前にはこの人がテレビでコメントしているのを見た事があるけれど、決して情報のみを客観的に発信している人ではなかったぞ。


 自分だって無意識に、世論を動揺させるような仕事をやっておきながら、その世論が「だって竹田さんがこう言っていたから私もその意見に同意したんです!」と竹田さんのせいにしてきた時に責任を取りたくないんじゃないかなとさえ思える。「俺は言いたい事は言うけど、でも影響は受けないでネ」って、テレビに出てコメンテーターやってる人の言う台詞じゃないです。(そういう台詞は言っていないけど…)


 くどいようですが、この人がどういう意見を持ち、どういう活動をしようがその事自体はどうでもいいんだけど、そういう竹田さんが、発信源は自分であると明確にした上で、会社名などの組織に隠れる事なく自分の名前を看板にして意見を主張しているフリージャーナリスト達の行動にケチをつける事に激しい矛盾を感じます。何がしたいんだ?この人は。何故人にはそれを求めておきながら、客観的な情報を発信するのではなく、他人の活動の批判をする事に労力を費やす?


 今日本が大変な時に、同業者(ジャーナリストであると自分で名乗っているので)の手法の違いにケチつけてる場合かと言いたい。そもそも、それぞれのジャーナリスト達の真価を決めるのは彼ではなく受け手である私達だ。ジャーナリストである竹田さんからも何か有益な情報を欲しいものです。