たかが電気

 明日になったら忘れてしまうような当たり障りの無い無難な発言しかしない日和見コメンテーターと違い、官僚や原発や電力会社やマスコミの報道の方向性などの批判をする人は、キー局の番組にあまり出られないけれど全く出られないわけじゃない。


 でも本当にキー局の番組に出られないのはアメリカ政府や韓国を批判する人なんだなと最近気ずく。


 本題。
 福島で原発事故が起き、今も汚染水はもれ続けているというのに、7月16日に代々木で行われた脱原発の大規模集会にて坂本龍一さんが行ったスピーチの中の「たかが電気」という発言に批判が集まっていると聞いて驚いた。むしろこの発言は、謝罪と共に電力会社の人や政府の人達から聞こえてきたっていいような言葉だ。


  タクシーの運転手さんが売上金目的の強盗に殺害されたという事件や、ネットで集まった男3人が、通りすがりにたまたま見つけた帰宅途中の女性を拉致して殺害してお金を奪ったという事件が起きたが、例えばその被害者のご家族が「たかがお金のために何故人の命まで奪うのか」という発言をしたとしても、それを聞いた人の多くは「たかがお金」と言っても、お金は全く必要ない、という意味でなく、命と比べてのものだというのはわかるから、非難の声は上げないだろう。


 逆にしたり顔で「いや、たかがお金とか言ってるけど、お金がなきゃ今の日本じゃ暮らせないから!」「お金がなきゃ、家族のお葬式だってあげられないよ!」などと言ってしまう人というのは、正論を言ってはいるんだけど、その言葉は人間と人間が交わす「会話」とは言えない気がする。「嘘も方便」じゃないけど、言葉は数式と違って、同じ言葉がいつでも同じ意味や同じ働きをするとは限らない。


 坂本龍一さんの「たかが電気」発言も、あの原発事故の被害に直接巻き込まれた人達の身になっているからこそ出たものだと思う。この発言を簡単に批判する人は、結局福島の事故を他人事のように捉えている人なんじゃないだろうか。


 「YMOの音楽は電気なくしては生まれなかっただろ」という人がいるんだけど、そういう批判をしている人が坂本さんに絡みたいだけの原発推進側の人でないのなら、その人は日常生活でしょっちゅう人と会話のトラブルを起こしている人なんじゃないか。


 放射性物質放射線の影響で人間が立ち入り禁止になっている土地の映像を見たが、牛や犬などが紐につながれたまま餓死していたり、動物達が共食いをした後の死骸など、そこにいっていないのに何か獣の臭いが漂ってきそうな悲惨な状態だった。「私達人間のせいで申し訳ない」と何かに詫びずにはいられない状況を作ってしまった。


 YMOの音楽は電気あってこそと言うけれど、電気を大量に生むための原子力発電所の事故が作り出した、その誰もいない立ち入り禁止区域で、有り難い電気をふんだんに使ってYMOのライブをやってみたところで何の意味も無い。所詮は「命あってこその音楽」「ある程度余裕のある暮らしあってこその音楽」だ。




 それにしても、誤解が生まれるようにあえて坂本龍一さんのスピーチの中から「たかが電気です」の部分を切り取って報道するテレビ局にも悪意を感じずにはいられない。(だからって単純に「坂本め!」と怒る人にも「いい加減自分で調べ直そうよ…(呆れ)」と思う。)


 スピーチの全文を読むと、坂本龍一さんが言いたかったのは「たかが電気」というよりは「たかが発電」と言う事ではないだろうか?と思える。


 発電なんて、懐中電灯やラジオのレベルなら、手の平サイズのペダルをグルグルと回すだけでも作り出す事ができるもので、決して難しいものではない。家庭で使う電気も、太陽光や風力をうまく使っていけばやれない事はない。それなのに、何故こんなに自然を何万年も汚し、人間の体にも悪影響を与える恐れのある原子力という、人間がコントロールできないものを使い続けてまで発電する必要があるのだろうか?そういう意味での「たかが」ではないだろうか。

 坂本龍一さんのスピーチ全文


 日本人、一市民として来ました。


 これだけの人が集まったのはやはり、原発に対する恐怖が充満しているんだと思います。


 残念ながらデモだけでは原発は止まらない。
集会を催したり、脱原発の首長を増やしていくことが必要です。


 だがすぐには止まらないので、長期的にはなりますが、我々ができることといえば、電力会社への依存を少しでも減らしていくこと。こういう声がプレッシャーとなって届きますし、電力会社の料金体系、発送電の分離、地域独占といったものが自由化していけば、原発に頼らない電気を我々市民が選ぶことができる。


 また、一家庭や事業所がどんどん自家発電していく。


 そうやって時間はかかるが電力会社への依存を減らせば、私たちの払うお金が電力会社に行き、原発の施設になるわけですから、そういうところに払うお金を少しでも減らしていくことが大事だと思っています。


 言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のために、なんで命を危険に晒さないといけないのでしょうか。


 2050年頃には電気は各家庭、事業所で自家発電するのが当たり前の世の中になって欲しい。


 たかが電気のために、この美しい日本、そして国の未来である子供たちを危険に晒してはいけない。


 お金より命です。経済より生命、子供を守りましょう。日本の国土を守りましょう。


 最後に、「福島の後に沈黙していることは野蛮だ」が私の信条です。





 私は震災前から省エネ派(今のようにシビアでは無かったけど)だったので、夏前に野田ダミー総理が再稼働をしないで「ここは日本人みんなで力を合わせて、(健康な人は)節電して夏を乗り切りましょう!」とでも演説してくれていたら、野田政権の元で日本人がとても強く団結できた気がするのに…と残念でならない。