ベッキーなんかで揉めんなや

 有吉弘行さんのツイッター面白い。
『お願いだから謝ってー。謝るから謝ってよー。』/
『お願いします!(土下座)謝ってください!(土下座)』
って、謝罪を欲し過ぎでしょう。一度狙われたら謝罪せずには自由になれない。水木一郎先生ならこういう妖怪を知っていそうだ。


 有吉さんのような職業の人は、立派で優しい人達の前だけでなく乱暴な人やひねくれた人など、様々な人の前に出て表現する事で収入を得ているのだからしょうがないといえばしょうがないんだろうけど、ツイッター上でも玉石混合の観客から自分が原因ではない理由で嫌な言葉を浴びせかけられたりストレスを与えられたりするんだろうけど、それでも「嫌なら見るな!」とならずに、人々を楽しませるようなツイートを発信できるって素晴らしい。


 本題。
 先日の『ワイドナショー』にて松本人志さんが発した
 「ベッキーなんかで揉めんなや」
 という言葉は、後世に残したいくらいインパクトのある言葉だった。このくだらない問題を熱く語る事への皮肉も感じられ、こんなに短い言葉で全てを語れる松本人志さんはやっぱりすごい人。(松本さんの戦争や日米関係に関しての知識不足は相当深刻なものだけど、それはいずれまた)


 【流行語大賞】というのはあるが、みんなが使っていないけど、人々の心に強くインパクトを残した言葉というのも毎年記録を残しておくといいかも。私は面倒だからやらないけど。


 「ベッキーなんかで揉めんなや」の、松本人志さんが言いたかった事とは別の意味で、私はもっと憲法の事とかを本気で議論して欲しいと強く思う。


 なんだか日本の風潮として、「政治を語る人は意識高い」だの「真面目」「堅い」という偏見があるけれど、政治って最も私達の生活に密接なもので、言ってみれば『ゆとり教育』だって政府の方針だし、ブラック企業だのブラックバイト、安価な深夜長距離バスでの死亡事故が頻発してる事だって、つきつめれば政策が一因なんですよ。細かく口を出されたくない官僚や政治家が、国民にそれを悟られないように、あえて難しい言葉だったり複雑な手続きで目を逸らそうとしている。でもそこにまんまと乗っかっちゃ駄目じゃん。特に「ゆとり世代とか言いやがって!俺達がそれを決めたんじゃねぇや!」と怒ってる若者達は。じゃあ次は誰が決めるの?また人任せかい?と。


 憲法に関して言えば、「アメリカに押し付けられた」という理由で変えたがる人が多いが、私は国民目線で見れば押し付けられたとは全然思わないし、仮に押し付けられていたとして、そもそも何故アメリカが憲法を押しつけるに至ったのか?そして誰に押し付けたのか?をよく考えて欲しいよ。


 GHQ憲法を“国民”に押し付けたのではなく、“権力者側”(北朝鮮で言えばキム・ジョンウン、中国で言えば習近平、ロシアで言えばプーチン側)に国民が自分で人生を選ぶ自由などを保障した憲法を押し付けた。


 そして、今になって「押し付けられた」と声高に主張している連中の親や祖父の中に、“押し付けてきた”GHQに、その当時はペコペコして憲法を受け入れたがいるんだよと。


 その孫達が政治から遠ざかった職業についているなら責めるつもりはないが、今現在自分も政治家として居座っているならば、「アメリカに押し付けられた憲法は変えるべき!」と偉そうに言う前に、国民に向かって「押し付けられた憲法を受け入れちゃってすいませんでした」と謝れ。勝てない戦争なんか始めて300万人もの国民を死に追いやった末に押し付けられた憲法じゃないか。しかも自分達は生き延びているんだから。


 だから国民の側としては、「もう戦争はしない」という宣言は、300万人の犠牲の元に手に入れた、平和に生きる権利なんだと私は思っている。政治家や官僚や商売人や軍事バカに、我々の命を好きに扱われてたまるか。


 次の選挙で自民党が勝ったら、絶対に憲法が国民を縛るものに書き変えられてしまう。本当にね、マスコミも国民も、ベッキーなんかで揉めてる場合じゃないんですよ。